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☆日本ではトニーラマがウエスタンブーツメーカーでは、群を抜いて有名ですがアメリカでは、ルケーシー ブーツがその完成度の高さから他ブランドより
高級なウエスタンブーツメーカーに位置付けられています。
その要因として、まずはルケーシー の革に対してからのこだわりに始まると考えられます。
ルケーシー ブーツは独自の仕入れルートと自社養殖場を世界中に持ち、良質のエキゾチックスキン(スネーク、とかげ、オーストリッチ、クロコ、
スティングレー等々、)をルケーシーブーツのマテリアルとして使用しています。
2006年ジャワ島沖地震で近隣諸国も被災しました。
スリランカ沖で採れるエイがブーツ向きの良質の革だとスティングレー(エイの革)ブーツに使用していましたが、地震後 エイが採れなくなり、
他エリアのエイを代用するのではなく、その後、スリランカ沖でエイが採れだすまでルケーシー はスティングレーの革を使用したブーツは作らなかったのです。(現在はどうか知りませんが)
そのルケーシー ブーツのこだわりは、もちろん他の革を使用したブーツにもあてはまり、本場アメリカ人も唸らすブーツを数多く製造しています。
下に私の持っているルケーシー のブーツを2点画像で載していますが、両方とも5年以上前に購入したものです。磨くうちに最初の色とは
変わってきましたが、その変わり方がとっても良い味(良い使用感)となっていくのです。 では、ルケーシー の歴史も少し振り返ってみましょう。
歴史
1880年 Sam Lucchese(以下サム ルケーシー )は彼の弟とイタリアからアメリカへと移民しました、その時サム ルケーシー は16歳です。
彼らは、テキサス州サンアントニオで靴修理店で働き出します。何故ならルケーシー 一族はイタリアで800年の歴史を持つ、靴職人の
家系だったからです。
1883年、他の4人の兄弟が相次いでイタリアから移民してきます。それを機にルケーシー ブーツショップを立ち上げます。
その時の主な仕事は騎兵隊の靴作り、及びそれの修理でした。
その後十年間その軍隊の仕事に従事しますが、その間にルケーシー の兄弟はバラバラに なり、何人かはアメリカで死亡しました。
サムルケーシー は軍隊の注文でブーツを作りますが、一日に35足作るのがせいいっぱいです。それとサンアントニオには何社も 軍隊ご用達のシューズ&ブーツショップがあり、いつも競争にさらされていました。
しかし、サムルケーシー はブーツを愛し、また、社会の仕組みが変わればブーツビジネスも良くなっていくと信じていたのです。
彼の息子のカシモ ルケーシー は父親とは違う意見をもっていました。完璧主義者の彼の考えでは、ルケーシー ブーツを大きくするには、もっと品質管理
を十分に行わなくてはいけないと言うものでした、その考え方がしだいにルケーシー ブーツの評判をアメリカで高めていったのです。
1960年をになると、ルケーシー は新しいブーツ工場を作り顧客もだんだんと増えました。
その時のルケーシー の顧客名簿には、ルーズベルト大統領、ウィルロジャース(映画俳優)、ジョンウェイン(映画俳優)、リンドンジョンソン36代大統領、
ジョンコナリー(テキサス州知事)ジョニーキャッシュ(ミュージシャン)ロックフェラーファミリー、英国王室 など ステータスを持った顧客をかかえていたのです。
しかしながら、ルケーシー ブーツは評判の割りには利益が上がらず、サムルケーシー の息子(以降サムジュニア)は他メーカーのACMAブーツのセールスマンと
して働いていました。
1961年完璧主義者のカシモ ルケーシー がこの世を去り、サムジュニアはビジネスを相続すると供に、ルケーシー ブーツ の財務上の問題もひきついだのです。
結果1970年にサムジュニアはブルーベルと言うラングラーの子会社にルケーシー ブーツを売却しました。
しかし自分自身もアドバイザーとしてブルーベルに残りいろんなアイデアを提供しました。
1970年ブルーベルも退社しトニーラマに デザイナーとして入社し1980年にこの世を去ります。
その後 ルケーシー 一族の手を離れた会社はラングラーからACMAブーツカンパニーに買収され、アンダーチロットソンが指揮を取ります。
その結果、ルケーシー は現在の様なブーツだけではなく、ファッションも含めた巨大カンパニーになったのです。
大きな会社になり、経営合理化するとハンドメイドブーツの良さが無くなるのですが(そんなメーカーがアメリカにも沢山あります。 製造ラインを全て中国に移して、安物くさくなって格落ちしたりしています)
ルケーシー の良い味は残ったままだと考えます。 ルケーシー のブーツにはMADE IN TEXAS と刻印されています。そのへんが伝統と品質のプライドなんでしょう。
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